ウイルスとウイルス感染症 2018年版(平成30年版)
ウイルスは,おおむね100nm程度と極めて小さく,遺伝情報をコードする核酸(DNAまたはRNA遺伝子)と,その遺伝情報に基づいて形作られるタンパク質の2種類の物質を主要な構成要素とする単純な粒子構造の生命体である.あらゆるウイルスは,生物(宿主)の細胞内へ侵入し,宿主細胞が備えるタンパク質合成や遺伝子複製などの代謝経路を利用しながら子孫ウイルスを産生することで増殖する.つまり,宿主細胞の存在しない環境中で,ウイルスが自己増殖することはない.一方,しばしばウイルスと混同される細菌は,ウイルスの10~100倍程度の大きさで,自身の代謝経路を持ち,栄養条件などが整った環境中で自己増殖することから,ウイルスとはまったく別の生命体に位置づけられる.
ウイルスの宿主となり得る生物種は幅広く,ヒトや動物だけでなく,昆虫や植物,さらには細菌に感染して増殖するウイルス(バクテリオファージ)も存在する.ウイルスが宿主に対して病気を引き起こすメカニズムは多様で,感染した細胞を破壊しながら増殖することで体の組織・器官を損傷したり機能を失わせたりする場合のほか,宿主の過剰な免疫応答を誘発したり,感染細胞の分裂・増殖能力を異常に亢進させて癌を形成させたりする場合などがある.
一部のウイルスは,その粒子表面に宿主細胞由来の膜成分(エンベロープ)を持っている.この膜成分は,石鹸やアルコールなどの消毒薬で容易に破壊され,ウイルス自体も感染性を失う.しかし,ノロウイルスや口蹄疫ウイルスのようなエンベロープを持たないウイルスは抵抗性が高く,その不活化には塩素のような強力な消毒薬が必要となる.
自己増殖する細菌の場合,多くの種類に共通する特有の代謝経路があるため,それらの経路を阻害・抑制する物質,いわゆる「抗生物質」が,殺菌効果や増殖抑制効果を示す.一方,宿主細胞の代謝経路を利用しながら増殖するウイルスの場合,その増殖過程を阻害・抑制する物質の多くが宿主細胞にもダメージを与えてしまうこと,またウイルスの種類ごとに独自の増殖様式を備えていることから,幅広いウイルス種に有効な抗ウイルス薬を開発することは難しい.ヒトや動物に健康被害をもたらすウイルスは数多く知られているが,現在臨床現場などで使用されている抗ウイルス薬は,インフルエンザウイルスやC型肝炎ウイルス,ヒト免疫不全ウイルスなど,ごく一部のウイルスに対して個別に効果を示すものに限られている.
このような背景もあり,ウイルス感染症に対する対策としては,抗ウイルス薬を用いた治療よりも,ワクチンを用いた予防のほうがより一般的に実施されている.ウイルスを殺したもの(不活化ワクチン),あるいは病原性を弱めたもの(弱毒生ワクチン)を体内に接種することで,病原体の排除を担う免疫系に各ウイルスの形や性質をあらかじめ記憶させることで,実際に病原性のあるウイルスに暴露された際の感染や重症化を防ぐことができる.しかしワクチンの場合,効果を発揮する病原体の範囲が抗ウイルス薬よりもさらに狭く,例えばインフルエンザウイルスのように変異しやすいウイルスに対するワクチンは,その製造株の定期的な見直しも求められる.
【 小澤 真/河岡義裕 】