タンパク質のアミノ酸配列はゲノム上にコードされる遺伝子の塩基配列で規定されるが,ヒトを含めた多くの生物のゲノム配列が解明されたことで,個々の生物がつくるタンパク質の全体像把握が可能になった.個々の生物あるいはその細胞や組織がつくるタンパク質全体のことをプロテオームという概念で捉え,プロテオームを構成するタンパク質の種類と量の直接解析を基礎として,その機能を総合的に研究する学問分野をプロテオミクスとよぶ.タンパク質は化学的性質の異なる20種類のアミノ酸の組み合わせでつくられるために分子量や等電点など物理・化学的性質において非常に変化に富む.そして,タンパク質分解酵素による切断や糖鎖結合・リン酸化などの翻訳後修飾を受けるために,プロテオームには本来ゲノムが規定する種類よりもはるかに多いタンパク質分子種が存在する.また,プロテオームには極端に存在量の多いタンパク質から極微量のみ存在するものまで,存在量においても幅広いダイナミックレンジを示すうえ,タンパク質自体では増幅できないなど,タンパク質の直接解析には高い技術的ハードルが存在する.近年,高分子量タンパク質の質量を正確に測定できる質量分析法の技術開発が進みタンパク質の迅速かつ高感度な同定が可能になったが,それを可能にしたマトリックス支援レーザー脱離イオン化法とエレクトロスプレーイオン化法は,2002年度のノーベル化学賞の対象となった.プロテオームを構成する複雑なタンパク質混合物を分離する二次元電気泳動法や多次元液体クロマトグラフィー法などの分離技術もプロテオミクスを支える主要技術である.多様性に富む混合物全体を一度に分析する網羅性と極微量タンパク質をも検出する感度を兼ね備えた分析技術に支えられていることから,プロテオミクスは技術指向の研究分野であるともいえる.最近では,プロテオミクスには細胞や組織のプロテオーム構成タンパク質のカタログ化を中心とする“発現プロテオミクス”とタンパク質相互作用・複合体ネットワーク解析を中心とする“機能プロテオミクス”への研究分野の細分化も見られる.特に,機能プロテオミクスは,核磁気共鳴法や超低温電子顕微鏡解析法によるタンパク質やその複合体の構造解析,蛍光顕微鏡・共焦点顕微鏡を利用したタンパク質の細胞内動態の大規模解析,あるいはRNAi(RNA interference)法などによる網羅的タンパク質機能破壊解析も含め,生物物理化学や細胞生物学・分子生物学の分野も包括した分野へと発展している.今や,ゲノムの総合的学際分野であるゲノミクスと並ぶ21世紀の生命科学を支える一大分野になりつつある.
【 高橋信弘 】
■トピックス後日談■
「プロテオミクス 後日談(2017)」 2004年版の理科年表が出版されて以来10年以上の年月が経ち,プロテオミクス関連の論文数が当時の3倍以上の年間8千件を越えるまでに拡大するなど,プロテオミクスの分野はゲノム科学の総合的学際分野の一つとしての地位をほぼ確立した.この間に,特にタンパク質同定の主要技術であるタンデム質量分析法(MS/MS)に進歩が見られ,特定のイオンを選択して二度目の質量分析を行う方法の進歩に加え(data dependent MS/MS),すべてのイオンについて二度目の質量分析を行う方法(data independent MS/MS)の開発によって,検出感度と分析速度が向上し,細胞内に存在するほぼすべてのタンパク質を短期間で同定することが可能になった.また,定量法に関しても,同じタンパク質間の量比較だけが可能であった相対的定量法から,異なるタンパク質間での量比較が可能な絶対定量法へと技術開発が進んだ.加えて,これらの技術を,タンパク質を分子量の違いで分離する方法と組み合わせ,アミノ酸配列を共有する分子量の異なるスプライシングバリアントやタンパク質分解酵素で部分的に分解を受けたタンパク質を区別して同定する方法も開発された.これらの技術は,この10年の間に生命科学におけるごく当たり前の実験手段として広く一般化し基礎科学だけでなく応用分野にもすそ野を拡げてきた.その中でも広範に実施された応用研究例として,膨大な数の癌や成人病の検体を用いて,診断のための疾病マーカーや薬の効果をモニターするためのサロゲートマーカーの探索研究が世界的規模で精力的に進められた.これらの過程で,薬物や酵素阻害剤などの化合物をできる限り多く固定化した親和性担体を合成し,この担体に結合する特定の酵素群や特定のタンパク質群の種類や量的変動を解析することで(Activity-Based Protein Profiling),目的の薬物や化合物の生体への効果や副作用を検証するケミカルプロテオミクスなどの新たな分野が発達した.2004年以降のプロテオミクス分野の主な世界的取り組みとしては,Human Proteome Organization(HUPO,2001年に設立)が2009年からヒトが発現するすべてのタンパク質を組織ごとにデータベース化することを目的としたHuman proteome projectを始動させたことが挙げられる.このプロジェクトでは,質量分析,抗体,知識ベースを三本の技術的柱として,各組織で発現しているタンパク質を個々の染色体の塩基配列に帰属させることを目指すChromosome-based Human Proteome Project(C-HPP)と,ヒトをはじめとする生物が示す多様な生命現象とその異常である疾病をプロテオームの発現と変動を基礎にして総合的に理解することを目指すBiology/Disease Human Proteome Project(B/D-HPP)の二つのプロジェクトが進行している.我が国の主な取り組みとしては,2009年に日本プロテオーム学会が設立され,国際HUPO会議の開催(2013年)や,独自のプロテオーム情報データベースの構築などを推進している.また我が国発の試みとして,ゲノム情報をもとにして生体内に存在する各種のRNAを同定し,その転写後修飾の実態を定量的に解析できるRNAの質量分析法が開発され,細胞機能を支えるタンパク質とRNAのクロストークを生体レベルで直接解析できる学際的なリボヌクレオプロテオミクス研究の確立を目指す取り組みも行われている.
【 高橋信弘(2017年10月)】
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