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糖鎖生物学 2003年版(平成15年版)

 グルコースなどの単糖が2つ以上つながった構造は糖鎖とよばれる.代表的な糖鎖にはエネルギー源として貯蔵されているでんぷんやグリコーゲンがあり,これらはグルコースのポリマーである.このほかに,糖鎖はまた,糖タンパク質,糖脂質,プロテオグリカン(これらを複合糖質と総称する)などの構成分子としても重要であり,さまざまな細胞生物学的な機能をもつ.このような糖鎖の細胞生物的な働きを研究する学問を糖鎖生物学(グライコバイオロジー)とよぶ.糖鎖は単糖がひとつずつ付加されて作られる.この反応を触媒する酵素を糖転移酵素とよぶ.糖転移酵素は糖ヌクレオチドとよばれるドナー基質から単糖がひとつずつ前駆体のアクセプター基質に転移する反応を触媒する.このようにして糖鎖が作られるが,この糖転移酵素は,特定の遺伝子(最近は糖鎖遺伝子とよんでいる)から翻訳されてできるタンパク質である.つまり,糖鎖は遺伝子の産物である糖転移酵素によって二次的につくられる.タンパク質のおよそ半分以上は,糖鎖が付加されているとされている.このように,糖鎖の付加はタンパク質が遺伝子から翻訳されたあとに行われるので翻訳後修飾反応とよばれている.糖鎖のもつ生物学的な機能は不明なことが多かったが,この10年ほどでほとんどの糖鎖遺伝子の構造がわが国の研究者たちにより明らかにされ,この遺伝子を人工的に欠損させたり,過剰に発現させることにより,その糖鎖のもつ機能が明らかになってきた.こうして,糖鎖生物学の研究対象は分子レベル,細胞レベル,臓器レベル,個体レベルと広がっている.
 分子レベルでは,糖鎖の合成がどのような遺伝子により調節されているかを知ることができる.細胞レベルではおのおのの細胞のもつ特徴,いわば細胞の顔を特徴づける糖鎖の機能を明らかにする.血液型は糖鎖の違いによるもので,その代表的な例である.がん細胞の転移には細胞表面の糖鎖の構造が重要である.細胞と細胞の認識ではたとえばコレラ毒素が結合する相手は糖鎖である.また,白血球と血管内皮細胞との接着や細胞間の情報の伝達などにも重要である.糖鎖遺伝子が先天的に欠損すると胎性致死になったり,生後,精神遅滞,神経疾患などがみられる.さらに,糖鎖生物学はインフルエンザの治療,がんや肝炎,関節炎などの感染症の治療,糖尿病などの生活習慣病の治療,異種移植などの超急性拒絶反応などの抑制にも貢献することが期待され,あるものはすでに薬剤として用いられている.

【 谷口直之 】

■トピックス後日談■

「システム糖鎖生物学」
 糖鎖は糖タンパク質,糖脂質,プロテオグリカン(これらを複合糖質と総称する)などの構成分子として重要であり,さまざまな細胞生物学的な機能をもつ.
 これまで糖鎖のもつ生物学的な機能は不明なことが多かったが,この20年ほどでほとんどの糖鎖遺伝子の構造がわが国の研究者たちが中心になって明らかにされ,この遺伝子を人工的に欠損させたり,過剰に発現させることにより,その糖鎖のもつ機能が明らかになってきた.こうして,糖鎖生物学の研究対象は分子レベル,細胞レベル,臓器レベル,個体レベルと広がっている.このような糖鎖の細胞生物的な働きを研究する学問を糖鎖生物学(グライコバイオロジー)とよぶが,最近のゲノム,DNA/RNA,タンパク質研究の飛躍的な発展,さらにケミカルバイオロジーや計算科学,質量分析,プロテオーム技術,イメージング技術,次世代型高速シーケンサーなどの発展とも相まって,糖鎖生物学の他領域との融合研究の重要性が論議されるようになっている.それをシステム糖鎖生物学とよぶ.
 システム糖鎖生物学は分子レベルでは,糖鎖の合成がどのような遺伝子により調節されどのような糖鎖がタンパク質などに付加されているかを知ることができる.細胞レベルではおのおのの細胞のもつ特徴,いわば細胞の顔を特徴づける糖鎖の構造と機能を明らかにする.たとえばがん細胞の転移には細胞表面の糖鎖の構造が重要である.また,がんの診断や治療効果の判定に用いられる血清中の腫瘍マーカー(広くバイオマーカーとも称する)とよばれる物質のほとんどは糖タンパク質や糖脂質であり,がんになるとこれらの血中の値が上昇するが良性疾患との区別はむずかしい.そのため糖タンパク質の糖鎖部分が特異的に変化することから,これを利用して肝がんなどの早期診断に利用されている.
 細胞と細胞の認識にも糖鎖は重要でコレラ毒素や腸管出血性大腸菌O157が出すベロ毒素と結合する相手は糖鎖である.また糖鎖は細胞間や外から細胞の中への情報伝達や遺伝子の調節の役割も果たしている.インフルエンザウイルスが細胞に感染するときもウイルスは糖鎖を認識して細胞に侵入し,出芽するときには糖鎖を切断して増殖したりする.また,白血球と血管内皮細胞との接着や細胞間の情報の伝達などにも重要であり,接着はがん細胞の転移や白血球,赤血球などによる血管の閉塞をもたらす.糖鎖遺伝子や糖鎖を分解する酵素が先天的に欠損,あるいは部分的な変異があると生後,発育不全,精神遅滞,神経疾患などがみられる先天性糖鎖異常症(CGD)が知られており,現在100種類以上みいだされている.
 このように明らかになってきた糖鎖の構造と機能の変化を従来の糖鎖生物学に加えたシステム糖鎖生物学のアプローチにより,さらに新たな機能の発見や,医学,細胞生物学への応用,さらには臨床応用が期待される.細胞における糖鎖の構造と機能を明らかにする基礎的な研究とともに,がん,糖尿病,慢性閉塞性肺疾患(COPD),アルツハイマー病、パーキンソン病、CGDなどの病気の発症機構,早期診断,さらには細菌感染症などのワクチン開発,インフルエンザの治療,抗体を用いたがんや白血病の治療,肝炎,関節炎などの感染症の治療や糖尿病などの生活習慣病の治療,異種移植などの超急性拒絶反応などの抑制にも貢献することが期待され,すでに一部は実用化されている.

【 谷口 直之(2017年12月)】

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