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日本の標準時

 1995年現在,日本の標準時の正式名称は中央標準時である.
 日本がグリニジ子午線を基準にした標準時を採用したのは,1888年(明治21年1月1日)からである.1884年,米国・ワシントンにおいて,経度と時刻制度の統一を目的として開催された国際子午線会議で,英国グリニジ天文台の子午儀の中心を通る子午線を世界の経度の基準(本初子午線)として採用,1日(世界日)は本初子午線での平均太陽時の正子(零時)から始まる平均太陽日とし,時刻(世界時)は本初子午線の時で24時間制をとる等が決議された.日本は1886年に,東経135度の子午線の時を以て本邦一般の標準時とすることを定め(1886年,勅令51号),1888年1月1日から施行した.以来,東経135度の子午線の時刻(時間表示では本初子午線の時刻より9時間進んだ時刻)が日本の標準時となっている.
 1896年,日清戦争後清國から割譲を受けた領土(台湾及び澎湖列島)並びに八重山及び宮古列島の標準時として,新たに東経120度の子午線の時刻(東経135度の時刻に較べ1時間遅れた時刻)を西部標準時として採用し,一方,従来の東経135度の子午線の時を中央標準時と称して区別することになった.1937年9月末日で西部標準時は廃止された.が,中央標準時の名称はそのまま法文に残り,日本の標準時の正式名称として使われている.西部標準時を廃止した理由は,台湾及び澎湖列島並びに八重山及び宮古列島において政治・経済・交通その他諸般の点に鑑み本邦一般の標準時に依るの要あるに由り改正するとある(公文類聚第61編).当時,日本近隣諸国の採用標準時は次のようであった.朝鮮は従来,標準時として東経127.5度の子午線の時を使用していたが,1912年からは中央標準時を使用.従来,東経120度の子午線の時を使用していた満州國,関東州は1937年1月より中央標準時の使用を始めていた.
 日本で施行された標準時には,他に,1920年,ヴェルサイユ条約等の規定により日本の委任統治領になった南洋群島の標準時がある.東経135度の子午線の時を南洋群島西部標準時,東経150度の子午線の時を同中部標準時,東経165度の子午線の時を同東部標準時とし,1919年2月1日より施行された.これらの標準時は多少の変更はあったが1945年まで続き第2次世界大戦の終結によって廃止された.
 日本で施行された時刻制度には,一時施行された夏時刻がある.夏時刻というのは夏季の間,標準時を一定時間進めた時刻を日常生活で使い,夏の長い日照時間を有効に活用し,それに伴う数多くのメリットを享受する主旨で考えられた人為的な時刻である.日本では,1948年から中央標準時を1時間進める夏時刻法が施行されたが,デメリットも少なくはなく,わずか4年で廃止された.東経135度の子午線の時である中央標準時を1時間進める夏時刻は東経150度の子午線の時刻と同じである.東経150度を通る子午線は北方領土の択捉島・国後島よりもさらに東方を通る子午線である.このような夏時刻の日常生活への導入は半年毎(夏季毎)に,交互に2つの異なる子午線の時刻を使うことになり,時刻制度の持つ大事な斉一性を損なうことにもなる.学術研究・歴史・天変地異の記録・人間の出生・死亡の記録などにおいては,時刻の斉一性が大切である.
 国際的な経度と時刻制度の統一を目的とした国際子午線会議の決議の下で施行されている標準時の制度は,地球上の位置と地球の自転運動を基にした優れた時刻制度である.
 1995年現在,中央標準時の決定は文部省,標準時の通報は郵政省が主管である.以前からの関係で文部省の決定する中央標準時と郵政省の通報する標準時を区別している.しかし,現在は両者の意味する標準時の中身はいずれも「協定世界時+9時間」である.

【新美 幸夫】

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