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内分泌撹乱物質(環境ホルモン)について

 最近マスコミを賑わしている環境ホルモンとは何なのであろうか.ホルモンという言葉は20世紀の初めに生まれた学術用語で,その多くは生物体内を血流に乗って循環し,身体全体を健全な状態に維持するために必要な生理機能を制御する物質であり,動物では主として体内の特定の細胞で合成され生理状態の変化に合わせて分泌される.環境ホルモンとはホルモンと似た作用をもつ物質やホルモン作用を阻害する物質で,本来生物の体内には存在しない化学物質に対して便宜的に付けられた名称で,正しくはホルモン作用撹乱物質というべきものである.この内分泌撹乱物質がなぜ問題となるかは,いわゆる一般的な毒物とは異なる遅延性の影響を生物に及ぼす可能性が指摘されているからである.生物,とくに動物の性の分化は発生時の温度や栄養状態などの生存環境や,もって生まれた染色体の構成などにより決定される.哺乳類や鳥類などは受精卵の染色体の構成により雄になるか雌になるかが決まっているが,遺伝的に決められるのは精巣ができるか卵巣ができるかというところまでである.それ以後の性差,すなわち子宮をもったり前立腺をもったり,発情周期(月経)があったりするのは,分化した精巣あるいは卵巣から分泌される性ホルモン(女性ホルモンや男性ホルモンなど)の作用に負うところが多い.例えば哺乳類のように,雄が異型の性染色体構成(XX/XY)をもつ動物は,雄になるべき個体の精巣が雌個体の卵巣よりも早く分化して男性ホルモンとミュラー管抑制ホルモンを分泌し,前者は生殖器官系原基に作用して前立腺をつくったり,乳腺を退化させたり,脳の神経細胞の数と配線様式を雄型に分化させ,後者は子宮原基を退化させる.一方,雌の卵巣からすこし遅れて分泌される女性ホルモンには,子宮や乳腺の発達を促し,一定の周期で排卵する脳神経機構を発達させるなどの作用がある.胎児期あるいは出生直後の未分化な生殖器官系原基を保有する期間で,ホルモンに対する感受性が発現する時期を臨界期というが,この時期に必要なホルモンが適正な量分泌されることが,正常な性分化に必須の条件である.実際に雌ネズミの胎児期あるいは出生直後に多量の性ホルモンを与えると,正常な雌化が阻害されて雄化してしまうため,成獣になっても雌特有の排卵周期がみられず不妊になる.ヒトでも遺伝的欠損から生まれつき性ホルモンに対する感受性がない場合,XY型の性染色体構成をもっていても,女性のような表現型を示すことが知られている.また,生存環境により性分化が左右されている動物種においても,最終的にはホルモンやホルモン様物質が雌雄の決定に関わっていることが多い.
 内分泌撹乱物質はホルモンではなく,ヒトが生活上必要として合成した物質やその副産物である.ホルモンなどの生理活性物質といわれるものは細胞に存在する受容体という構造に結合してその作用を発揮するが,この撹乱物質はあたかもホルモンのように受容体に結合して,ホルモンと同様の作用を引き起こしたり,あるいは正規のホルモンと競合してその作用を抑制したり,正常なホルモンの分泌や代謝等を阻害するなどの働きをもつ.そこで撹乱物質に汚染された水や食物等を摂取すると,必要でない時にホルモンが働いたり,必要な時に働かない状態になる.しかも,やっかいなことに撹乱物質の多くは代謝されて体外に排泄されるのが遅く,体内に長期間蓄積される傾向が強い.妊娠中の母親が撹乱物質に汚染されていれば,直接あるいは間接的に胎児の正常な性分化が阻害されて,健全な卵を産めない雌,あるいは精子の生産能力のない雄が生まれたりすると考えられている.一方,1960年代の初め高杉暹博士により出生直後のマウスに女性ホルモンを与えると,そのマウスが成熟してから膣などの生殖器官系に癌が発生すると報告された.すなわち,臨界期の異常なホルモン環境は生殖活動不全のみならず,将来の癌化につながることが明らかになった.それまで成体に対する長期間の女性ホルモン投与が乳腺,子宮,肝臓などに癌を誘発することは知られていたが,胎児期あるいは幼児期ならほんの数日の短期間投与で影響のあることが判明し,臨界期のホルモン暴露の危険性が浮き彫りになった.その後,この動物実験と同様の現象がヒトでも起こり問題となった.すなわち,流産防止のため母親に合成女性ホルモンが投与され,結果的に臨界期に異常なホルモン環境に曝された胎児には,生まれて思春期を迎える頃その生殖器官系に癌が高い確率で発生することが明らかになった.この事実により,妊婦に対するホルモン投与については慎重な対処が行われるようになった.また臨床の現場のみならず,普段の生活の場における性ホルモン様の作用をもつ物質の検索が盛んになり,例えば植物がもつ植物性女性ホルモン様物質が家畜の飼料などに混入すると,その動物の子宮に癌様の異常増殖が発生したり,不妊になったりすることなどが明らかになった.内分泌撹乱物質は現代の便利で快適な生活環境の維持に一役買うホルモンとは何ら関係のない物質として,殺虫剤,電気製品,プラスチック製品に汎用されたDDTやPCB,プラスチックの焼却で生じるダイオキシンなどである.これらの物質が環境中に流出して,食物連鎖の上位に位置する動物の体内に蓄積された結果,ある種の動物種は生殖能力が奪われ,子孫を残すことができず,絶滅の危機に瀕しているといわれる.なお,このように生殖内分泌関連のホルモン作用を撹乱するのみならず,甲状腺ホルモンや副腎皮質ホルモンの作用を撹乱すると思われる物質も知られている.ヒトに対する影響として近年の乳癌や子宮内膜症の多発傾向や,男子における精子数の減少などが問題となっているが,未だ特定の内分泌撹乱物質との因果関係が明らかにされたわけではない.しかし,これまでの動物実験における数々の知見から,その原因となっている可能性があるといわざるを得ないところから,プラスチック製品の使用,焼却炉の改善,撤去などが社会問題となっている.これまで内分泌撹乱物質としてあげられている物質は80種近くもあるが,そのうちのいくつかを利用形態と共に列挙する.

DDT(DDTは最もよく使用された殺虫剤だが,他の多くの殺虫剤にもホルモン様作用があるとされる)
PCB類(ビフェニルと塩素から合成されるPCBは,その不燃性や絶縁性から電気製品内部の冷却や絶縁材の添加物として使用された)
アルキルフェノール類(ノニルフェノールなどに代表される化合物で,脂質との結合性に優れ流動性があるため,塗料,化粧品,界面活性剤,プラスチック製品などの添加剤として使用された)
ビスフェノールA(透明で硬質のプラスチックの原料,ポリカーボネート樹脂の製造に使用された)
フタル酸化合物(プラスチック製品に柔軟性を与えるため,プラスチックタイル,接着剤,食品パッケージ,合成ゴムなどの可塑剤として使用された)
有機スズ(船底に貝や藻が付着するのを防ぐための塗料や,いけすの網の汚れ防止塗料などとして使用された)
ダイオキシン類(種々の加工製品の製造過程で副産物として生じたり,プラスチック類の焼却の際に生じる)

【 守 隆夫 】

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