時には昔の話を
平成31年4月1日,平成に代わる新元号「令和」が発表され,憲政史上初となる天皇の譲位にもとづく代替わりもいよいよ準備が整った.今回はこれを軸に話をまとめてみたい.
政府の発表によれば,「令和」は『万葉集』巻五「梅花歌三十二首」の序文「初春令月気淑風和(初春の令月にして気淑く(きよく)風和ぎ(やわらぎ)」から引用したもので,中国の古典ではなく日本の古典を出典とするのも史上初のことである.初春とは陰暦正月のことで,実際この梅花の宴は天平二年正月十三日に開かれた.この日はグレゴリオ暦に換算すると730年2月8日であり,大宰府といえども梅の見ごろには少し早く,早咲きの梅が咲く程度だったかもしれない.一方,この序文自体が中国の古典『文選』巻十五に収められた「帰田賦(きでんのふ)」の影響を受けているという指摘もある.広辞苑などには「令月」とは万事をなすのによい月,めでたい月,嘉辰令月,に加えて陰暦二月の異称とあり,これは帰田賦の「仲春令月時和気清」の仲春=陰暦二月をもとにしているのだろう.
帰田賦の作者である張衡(ちょうこう)は後漢の太史令,すなわち天文や暦法を司る役所の長官も務めた人物である.古代中国の宇宙観の1つである渾天説は,張衡の著書『渾天儀』において集大成された.渾天説とは黄身を包む卵の殻のように丸い天が地を包み,それが北極・南極を軸に1日1回転することで星が見え隠れするという考え方で,赤道や黄道の概念も含む,現代の天球に近い宇宙観である.張衡はさらに渾天説の原理を示す渾天儀(渾天象)という模型も作っている.これは星々を描いた天球が漏刻の水を動力として自動的に1日1回転し,星の出入りや南中を忠実に再現させることができたという 1).
漏刻とは水の流れる速さが一様になるよういくつもの壺を管で連結したような装置(図1)で,水位の変化から時の経過を測る水時計である.日本書紀には,天智天皇十年四月辛卯(二十五日,グレゴリオ暦換算で671年6月10日),新しい台に漏刻を設置し鐘鼓を鳴らして時を告げた,という記事があり,これが6月10日「時の記念日」の制定につながった 2).大正9年(1920)の記念日制定からまもなく100年が経とうとしている現在でも,当時の都近江大津宮の近くにある近江神宮ではこれを記念した漏刻祭が毎年執り行われている.
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図1 漏刻(西村遠里,授時解)
日本書紀には天智天皇が中大兄皇子と呼ばれていた斉明天皇六年(660)に初めて漏刻を作り,民に時を知らせたという記事もあり,こちらは奈良県の飛鳥水落遺跡と推定されている.中大兄皇子といえば乙巳の変(645)に始まる大化の改新の中心人物であり,日本の年号の歴史もこの「大化」に始まり,現在まで248個を数える.
暦計算室では新元号の発表にちなんで,太陰太陽暦と太陽暦の暦日変換などにお使いいただけるよう,日本の暦日データベース 3)と日月食等データベース 4)を公開した.こういったツールも参考にしつつ,古代の時について想いをはせるのもまた一興ではないだろうか.
【片山真人】
1)藪内清,中国の天文暦法,平凡社,(1969).
2)河合章二郎,時の記念日,天文月報第13 巻第7 号,(1920).
3)https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/caldb.cgi
4)https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/eclipsedb.cgi