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胚性幹細胞と再生医療 2002年版(平成14年版)

 我々の体の臓器や組織の機能を回復するために,正常機能をもつ細胞を移植したり,細胞の増殖修復を促進させる新たな治療法には大きな可能性がある.しかしながら,必要に応じてヒト機能細胞を供給するのは容易ではない.個体発生の過程で各種の機能細胞が作り出されるかなめの部分には幹細胞と呼ばれる自己増殖能をもつ細胞群が存在する.受精卵が発生を始めた初期には全ての細胞種をつくる基になる胚性幹細胞が存在し,やがて神経系や造血系などの基になる組織幹細胞が出現する.これらの幹細胞を生体外へ取り出して,培養器のなかで増殖させて,目的の機能細胞へと分化させたのち,移植治療に用いる可能性が現実に近づいている.

多能性幹細胞(ES細胞とEG細胞)
 ほとんど全ての細胞種に分化する能力をもつ多能性幹細胞としては,ES細胞(胚性幹細胞)とEG細胞が存在する.ES細胞株(embryonic stem cell line)は,着床前の胚盤胞内に存在する内部細胞塊から樹立される.一方,ES細胞と似た性質をもつ細胞株が始原生殖細胞を培養することにより樹立されて,EG細胞株(embryonic germ cell line)と呼ばれる.このように,ES細胞は初期胚において様々な体細胞系譜と生殖細胞系譜が分岐する以前の未分化幹細胞から由来する細胞株であり,EG細胞は始原生殖細胞が分岐前の状態へ逆戻りした細胞株と考えられる.多能性幹細胞は,未分化状態を維持させる培養条件下では,多様な細胞種へ分化できる多分化能と正常染色体型を保持したまま無制限に増殖できる.しかしながら異なる条件下では,造血系細胞,心筋細胞などに分化するとともに,細胞増殖が抑制される.また免疫拒絶を受けない同系マウスや免疫抑制系統マウスの皮下や精巣内などに移植すると,多種類の組織が入り交じった良性癌であるテラトーマをつくる.さらに胚盤胞の中に注入すると胚発生に加わってキメラ動物をつくる.

ヒトES細胞株
 培養下で長期間増殖できるヒト多能性幹細胞株が得られれば,移植再生医療にとって重要な材料を提供できると考えられる.アカゲザルとマーモセットのES細胞株樹立に続いて,米国とオーストラリアなどにおいて,不妊クリニックで廃棄される前のヒト胚盤胞からES細胞株が樹立された.また中絶胎児から分離した始原生殖細胞を用いてEG細胞株の樹立も行われた.我々の研究室ではカニクイザルの胚盤胞からES細胞株を樹立することに成功した.霊長類ES細胞はマウスES細胞に比較して,いくつかの相違点があるが,サルとヒトES細胞は非常に似ている.一方,ヒトEG細胞はヒトES細胞と違った性質をもっており,マウスES細胞と類似した点もある.このような霊長類ES細胞株の特性は動物種による違いとともに,多能性幹細胞の発生段階の微妙な違いを反映していると思われる.

ES細胞の分化誘導
 ES細胞の培地条件を変えたり細胞凝集塊をつくらせたりすると,様々な細胞種に分化させることが可能である.胚発生過程で初期につくられる心筋,造血系や神経系細胞が分化しやすいが,より複雑な組織間相互作用の結果遅れて出現する内胚葉組織の細胞は分化させにくい.分化誘導条件としてはフィーダー細胞を除去する,分化誘導因子を加える,細胞凝集塊を作らせる,さらに初期胚と似た構造をもつ胚様体(embryoid body)を作らせる,あるいは目的とする細胞や組織の分化決定に関わる転写因子遺伝子を強制発現させるなど様々な方法が試みられている.このようにして,ES細胞から様々な正常機能を持つ組織細胞を分化させることが可能になれば,それを用いた移植再生医療への応用が現実的になる.例えば,ES細胞からつくった神経系細胞の移植によるパーキンソン病治療,ミエリン鞘修復や脊髄損傷修復が期待されている.造血幹細胞をつくれば白血病治療などのために患者の造血系を再構築することが可能になる.また肝不全,心筋梗塞や糖尿病などの新たな治療法の開発も期待される.
今後の展望
 脳老化疾患治療などこれからますます増大する移植再生医療の必要性に対応してドナーを確保する難しさを考えると,ヒトES細胞株を用いた研究は倫理的側面に配慮しながらも積極的に進めるべきである.神経幹細胞などの組織幹細胞を利用する研究も進んでいるが,最終的に治療現場で使用できるまでの道のりは両者ともに長く,多能性幹細胞と組織幹細胞の両方を含めたできるだけ多方向からの研究を進めることが,様々な疾患に対する治療方法をできるだけ早期に開発するためには不可欠である.

【 中辻憲夫 】

参考文献
「蛋白質核酸酵素」 臨時増刊号「再生医学と生命科学」(編者 浅島誠・岩田博夫・上田実・中辻憲夫)(2000).
「最新医学」別冊「再生医学-21世紀の医学を展望する」(編集 中尾一和)(2000).

■トピックス後日談■

ヒト多能性幹細胞(ES細胞・iPS細胞)と新薬開発及び再生医療への応用

 ヒトの胚性幹細胞株(ES細胞株)および,それとほぼ同じ性質を持つ細胞株を体細胞の初期化によって作成した人工多能性幹細胞株(iPS細胞株)の研究は急速に進展すると共に,それらの応用に関しては2種類の目的で発展している.

 最初の目的は創薬分野である.新薬を開発する際には,対象とする病気で影響を受けた細胞に似た疾患モデル細胞をES細胞やiPS細胞から細胞分化により作成して,多種類の化合物から治療薬候補をスクリーニングすることが既に創薬企業などにより世界中で始まっており,新薬開発で重要な役割を果たすことになる.それに加えて,新薬候補化合物が心臓や肝臓などに毒性を示すことが分かると,新薬開発を中断するか,副作用を無くすために別の類似化合物に変更する必要がある.このような毒性・安全性試験の為に,ES細胞やiPS細胞から心筋や肝細胞を作成して,新薬の安全性を高める為の活用が始まっている.特にiPS細胞の場合には,様々な病気や体質をもつ人間から同じゲノムを持つ細胞株を樹立できるので,多種類の性質をもつ細胞で新薬候補をテストすることが可能になる.この目的のために,米国や欧州および日本で,多種類の疾患患者から樹立されたiPS細胞株を収集,保存して利用者に分配するための細胞バンクが構築され,研究者や創薬企業の研究開発に利用されるシステムが作られている.
 
 次の応用目的は,病気の治療に効果がある各種細胞をES細胞株やiPS細胞株から作成して,これらの細胞を必要な臓器部位に移植して治療する細胞治療であり,再生医療に含まれる.この応用領域で最も進展しているのは,網膜変性疾患と脊髄損傷と1型糖尿病に対する細胞治療であり,米国などにおいては各々について網膜色素細胞,オリゴデンドログリア細胞,インスリン産生細胞をES細胞株から生産して,患者の疾患部位に移植する治験(臨床試験)を既に5年以上続けており,安全性確認や治療効果が見られたなど良好な結果を得ている.このような治験が今後成功すれば,これら難病の細胞治療が実現することになるので,大きな期待を集めている.更に,ES細胞だけでなく,iPS細胞を用いる細胞治療についても,日本などで初期的な臨床研究が始まっている.

 このように,ES細胞やiPS細胞を用いた細胞治療(再生医療)が大きな期待を集めているが,果たしてどの程度の実用化が成功するかについては,いくつかの課題が残っており,まだ確実ではない.第一の問題は,これら多能性幹細胞株におけるゲノム変異やエピゲノム異常である.そもそも,細胞分裂を繰り返した細胞株ではゲノムの突然変異が起きることは必然的であり,癌遺伝子などの高リスク変異の有無については継続的な検査と選別が必要である.そしてゲノムが同一であっても異なる働きをするエピゲノムに関しては,一旦分化した体細胞を初期化して作るiPS細胞株では完全に初期化するのが今のところ困難であり,分化細胞のエピゲノムが一部残存することによる異常が指摘されている.第二の問題は,治療コストが高くなるという予想である.治療に必要な大量の細胞生産は,従来の治療薬としての化合物の大量生産に比較して遥かに高コストであることに加えて,細胞株や細胞製品の品質管理は,化合物の品質管理と比較して遥かに複雑で高コストである.したがって,細胞治療に比較してコスト抑制や品質管理が容易と考えられる遺伝子治療や,さらには従来型の薬剤化合物による治療が可能であれば,後者のほうが多数患者への低価格治療として実用化に適していると考えられる.

【 中辻憲夫(2018年2月)】

参考文献
中辻憲夫:「幹細胞と再生医療」丸善出版 サイエンス・パレット(2015年).

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