理科年表の歴史 2006/11/30
『理科年表』の第一冊が発行されたのは大正14年(1925)で、現在まで実に4分の3世紀以上にわたって発行され続けてきました(第二次大戦の影響で、昭和19、20 、21年は発刊できませんでした)。昭和63年(1988)の第61冊までが東京大学の東京天文台編、それ以降は国立天文台編です。
明治のころ東京の麻布にあった東京天文台は、大正時代に入ると、東京の灯火を避けて現在の三鷹に移転する計画が進んでいました。それが、大正12年(1923)の関東大震災で観測施設は壊滅的な被害を受けたため、翌年、大部分の設備は三鷹に移管されました。これをきっかけに東京天文台は、本格的な天体暦(月・惑星の位置や詳しい天文現象の予報を載せた暦)の編纂に乗り出すため、予算要求をしました。ところがほぼ同じ時期に、海軍の水路部が同様な計画を出してきて、競争になりました。船舶を安全に航行させるためにも海上での天体の位置観測が重要なのです。文部省と海軍省の交渉の末、天体暦の編纂は水路部が行うことに決定されてしまいました。たぶん当時は、軍事的な目的の方が優先されたのでしょう。しかし、東京天文台も元の計画をまったく止めるわけにもいかず、水路部の天体暦と競合しない小型の天体暦を発行することになりました。これが『理科年表』誕生の発端です。
大正14年の第一冊序文には、“此年表ハ一般理学ノ教育、研究及ビ応用ニ便スル為メ毎年発行スルモノデ、暦部及ビ天文部ハ直接東京天文台ノ編纂ニ係リ、其他ハ次ノ諸氏[岡田武松(気象)、中村清二(物理)、松原行一(化学)、山崎直方(地理)、今村明恒(地震)]ノ監修ニヨツテ編纂シタモノデアル”、と書かれています。後の時代から入ってきた生物部、環境部を除くと、基本的な部門構成は今も昔と変わっていません。でも、なぜ天文台発行の天体暦に気象や物理・化学などが加わったのでしょうか。はっきりした理由はよくわかりませんが、私は次のように想像しています。
東京大学が発足した明治10 年代から、東京大学の図書館では、フランスの経度局が発行する『経度局年鑑』を購入していました。『理科年表』よりもっと小型のポケットサイズです。主要部分は天体暦ですが、副題に“付科学データ”と書かれているように、物理・化学や気象のデータも含んでいます。また、東京天文台の初代台長になった寺尾寿は、パリ天文台に3年間留学し、フランス天文学を日本に導入しました。したがって、当時の東京大学関係者にとっては、フランスの『経度局年鑑』は慣れ親しんだデータブックだったはずで、『理科年表』の計画が起こった時、『経度局年鑑』を手本にするという考えが浮かんだのは自然ななりゆきだったと思います。本家の『経度局年鑑』は1976年まで続いた後、分野別の冊子に分かれて現在に至ります。