暦部「二十四節気」「雑節」をくわしく解説!
太陰太陽暦
現在日本で使われている暦は、明治六年 (1873)に導入された太陽の動きを基とする太陽暦である。それ以前は太陰太陽暦 (天保暦)が使われていたので、現在の暦-新暦に対して、旧暦と呼ばれることがある。太陰とは太陽に対して、天体の月を意味する漢語的表現である。太陰暦は、この月の満ち欠けの周期 (朔望月 : 平均 29.53 日)を基にして作られた暦で、 1 ヵ月の初めを朔(新月)の瞬間が含まれる日とし、終わりをつぎの朔の前日とした。 1 ヵ月の「月」はここからきている。
太陰太陽暦はこの太陰暦を基に、太陽の動き、すなわち季節に合うように補正を加えたものである。太陰暦の 1 年は、地球が太陽の周りを一回りする 1 太陽年と比べて約 11 日短い。
太陰暦の 1 年 29.53 日 × 12 月 = 354.36 日
1 太陽年 365.24 日
太陰暦と太陽暦で同じ日に年が始まったとすると、 1 年目の太陰暦の年越しは太陽暦の 12 月 20 日ころになり、 3 年目で約 1 ヵ月のずれとなる。何もしないと太陰暦はその割合で季節より早くなり続けてしまう。季節の変化が小さい地域では、これでも大きな不都合は起こらないかもしれないが、中国や日本のような中緯度にあって、四季の移り変わりがはっきりとしている地域では、農作業の目安とするには不便である。
このような季節のずれを補正するため、太陰太陽暦では閏月を入れてこれを改良した。古くから 19 太陽年と 235 朔望月は、ほぼ等しいことがわかっていたので、太陰太陽暦では閏月を 19 年に 7 回入れて太陰暦のような大きな季節のずれが生じないように運用された。
19太陽年は365.2422日 × 19= 6939.60日 、
235朔望月は29.53059日 × 235= 6939.69日
このようにすれば、長い間に太陰太陽暦と季節とのずれが蓄積していくことはなくなる。それでも閏月を入れる時には、月日と季節の関係が 30 日ほどずれていることになるので、月日とは別に季節の目安となるものが必要になった。
二十四節気
二十四節気(にじゅうしせっき)は太陽の動きを基に、太陰太陽暦の季節の目安として設けられた。
中国では紀元前より太陰太陽暦が使われていて、まず二至二分 (夏至、冬至と春分、秋分)、四立(立春、立夏、立秋、立冬)が定められ、徐々に他の節が加わり二十四節気に整えられた。 6 世紀ごろ日本に暦とともに伝わったと考えられているが、中国の黄河中 ・ 下流域の気候を基につくられているため、必ずしも日本の気候と合っていない。
二十四節気は太陰太陽暦で季節の目安であるとともに、閏月を入れる目安ともなっていた。まず、二十四節気を春夏秋冬の 4 つの季節に分け、さらにそれぞれを 6 つに分けて、節気 ( せっき ) と中気(ちゅうき )を交互に配した。その月に含まれる中気によって月の名前を決めていた。たとえば、その 1 ヵ月に雨水 (正月中)が含まれる月を正月、春分(二月中)が含まれる月を二月とした。
二十四節気の決め方には、 1 年の時間を 24 等分して決める恒気法 (平気法)と、現在のように 1 年の太陽の黄道上の動き(視黄経)を 15 度ごとに 24 等分して決める定気法がある。
恒気法では、 1 太陽年を 12 等分した 365.24 日 ÷ 12 ≒ 30.44 が中気と中気の間隔で、太陽の平均的な動きを表現している。この間隔は平均朔望月 29.53 日 より大きくなるため、中気の含まれない月が生じ、これを閏月としていた。
しかし、太陽の周りを回る地球の軌道は円ではなく楕円なので、太陽の黄道上を動く速度は一定ではない。西洋の天文学を取り入れた天保暦では、定気法を採用し、太陽の実際の動きに対応したものになった。
この定気法では中気を二つ含む月が存在しうるので、天保暦では二至二分を含む月は 2 月、 5 月、 8 月、 11 月と決め、中気の含まれない月に閏月を置くこととした。ところが、中気の含まれない月が必ずしも閏月とはならない (例参照)など、精度は高くなった反面、暦としては複雑になってしまった。
(例)中気を二つ含む月があり、その前後に中気を含まない月ができる場合がある。
明治三年(1870)の 10 月の後の月は中気なしなので閏 10 月となり、翌月は中気を二つ含む月であるが、冬至 (11 月中)を含むので 11 月となる。つぎの月も中気なしだが閏月とはならず、その翌月が雨水 (正月中)を含み正月となるので 12 月になった。
[ 二十四節気一覧 ]
雑 節
雑節(ざっせつ)は、太陰太陽暦で二十四節気を補う、日本独自の季節の移り変わりの目安であった。農業に関連した事項が多く、理科年表では一般になじみのある一部を記載している。土用、彼岸は入りの日付けを示す。
伝統的七夕
元々太陰太陽暦の 7 月 7 日に行われていた牽牛織女の星祭りの行事は、太陽暦では 1 ヵ月ほど前にずれてしまい、梅雨のために星が見られないことが多かった。
2001 年より国立天文台では、「二十四節気の処暑 (しょしょ = 太陽黄経が 150 度になる瞬間を含む日 )よりも前で、処暑に最も近い朔 (さく = 新月) の時刻を含む日から数えて 7 日目を「伝統的七夕」の日」と呼びかけることにした。この頃は梅雨明け後で晴天率が高く、月が夜半前に沈むので、その後は天の川が観察しやすい条件となる。伝統的七夕を月や星を見上げるきっかけとして、またできれば不要な照明を消し、夜空をよく眺められるようにしてほしいと願ってのことである。
参照 http://www.nao.ac.jp/QA/faq/a0309.html
中秋の名月
中秋の名月とは太陰太陽暦の 8 月 15 日の月を指し、古くから名月、明月などと呼ばれ、これを見て楽しむ習慣があった。中国では唐の時代からあったようで、日本にも伝わり平安時代に宮中で月見の宴が催されたものが、一般にもひろまったという。
よく誤解されることであるが、中秋の名月といっても必ずしもその日に満月になるとは限らない。
参考:月齢と満ち欠けの関係
なお、「仲秋」とにんべんが付くと太陰太陽暦の 8 月を指し、にんべんの付かない「中秋」は、太陰太陽暦の 8 月 15 日を指す。
【松田 浩 国立天文台天文情報センター(2006年11月)】